講演風景
今年の夏の特別公開合同授業は都市について勉強しようということで、京都にある総合環境地球学研究所の村松伸先生においでいただき、「都市に住まう」ことについてお話をうかがいました。
ハートピア大会議室に集まった建築科および建築科二部の学生たち、外部からの聴講の方々を前に、静岡県の田舎町から東京に出て来られた先生ご自身の年代ごとに変わる都市とのかかわりから体験的な都市論が田舎と都市との比較のかたちで展開されました。ここはとても共感できました。
一方で、世界中に起っているメガシティ現象と中国などで行われている都市開発が紹介されました。「工学的なインフラで都市問題は解決されるのか?」という疑問が提出されました。
先生は人が都市に集まって住むという形態をとくに環境面から着目し、ほかの動物の集い棲息する姿との比較を念頭に、都市が環境にあたえる影響をさぐろうとされているように見えました。とくに世界中に急速に進展しているメガシティ(人工1000万人以上の大都市)の生態に眼を向け、現在は貧困大都市ジャカルタで人々がどのような住まいをしているか、調査研究をされているとか。その一方で、東京大学生産研究所教授として、子どもたちのまち探検隊による「まちリテラシー」(まちのいいところを読み取る)研究活動を続けておられます。
後半では、東京の代々木で行われている小学校の子供たちと大学院生による「まち探検隊」が村松博士から出される「指令」をもとに、自分たちの目で住んでいるまちを眺め、発見していく姿がDVDで紹介されました。まちに住まう人は子供たちの活動を通して、自分たちのまちを見直し、関心をもって、まちのいいところを認識するとともに、自分の住まい方を見つめ直す。このような態度が、高度経済成長期に効率的に労働力を収納する道具としてつくられた都市に欠けていた大事なものを補うのではないか?
そう気がついた時、これまでの都市論が建築家や都市計画家の「つくる」という発想から論じられ、また実際に開発されて来ているのに対し、村松先生は「住まう」という視点からこれからの都市を考えていく方法論を提示されているのだと理解しました。
京都建築スクールプレゼン
ここで一旦、建築科二年生の「京都建築スクール」メンバーによる「都市のアクティビティのルール」という課題への取り組みについてプレゼンがありました。京都の下京区の一角を調査し、子どもたちの遊び場と道路の関係に着目、また用途地域規制(ルール)の掛け方を工夫することで、現代の都市、とりわけ課題に設定された地域にとって、より意味のある地区計画が可能になるのではないかという提案が示されました。
客席でコメントする村松先生
学生たちによるプレゼンに、村松先生は取組みの考え方を面白く拝見した。建築のかたち、ハードの側面にややかたよった提案なのではないかとコメント、最後に、「都市に住まうことはアートであり、哲学だ」と結論、講演を閉じました。
会場からの「都市の住まい方だけがアートなのか?」という質問に、いや、住まうことそのことがアートなのだと。ただ、田舎はそのような意識に開かれていない。都会の方が機会が多いことは確かだと答えられました。
ただ、アートと言われている内容が、先生の示されたもの(「市隠」 随園の生活)で言えば、それはある意味で、都会の中での自然、田舎的なものとの関わりに見出されたものであること、また一方で、田舎の農家や林家にわれ知らず、深いアーティスティックな生活をしている人もいる。両者の違いはその自覚のあり方、表現の仕方の違いにあるのであって、田舎に比較して都会がすぐれてアート的であるとは言えないのではないだろうか? (ちょっぴり疑問の建築科1年 マツイでした)
村松先生には梅雨の豪雨の中、お忙しいところを東京から往復して講演していただきました。学生たちにも私自身にもたいへん有意義な示唆を与えていただけたように思います。ありがとうございました。
(さのはるひと)
今年の夏の特別公開合同授業は都市について勉強しようということで、京都にある総合環境地球学研究所の村松伸先生においでいただき、「都市に住まう」ことについてお話をうかがいました。
ハートピア大会議室に集まった建築科および建築科二部の学生たち、外部からの聴講の方々を前に、静岡県の田舎町から東京に出て来られた先生ご自身の年代ごとに変わる都市とのかかわりから体験的な都市論が田舎と都市との比較のかたちで展開されました。ここはとても共感できました。
一方で、世界中に起っているメガシティ現象と中国などで行われている都市開発が紹介されました。「工学的なインフラで都市問題は解決されるのか?」という疑問が提出されました。
先生は人が都市に集まって住むという形態をとくに環境面から着目し、ほかの動物の集い棲息する姿との比較を念頭に、都市が環境にあたえる影響をさぐろうとされているように見えました。とくに世界中に急速に進展しているメガシティ(人工1000万人以上の大都市)の生態に眼を向け、現在は貧困大都市ジャカルタで人々がどのような住まいをしているか、調査研究をされているとか。その一方で、東京大学生産研究所教授として、子どもたちのまち探検隊による「まちリテラシー」(まちのいいところを読み取る)研究活動を続けておられます。
後半では、東京の代々木で行われている小学校の子供たちと大学院生による「まち探検隊」が村松博士から出される「指令」をもとに、自分たちの目で住んでいるまちを眺め、発見していく姿がDVDで紹介されました。まちに住まう人は子供たちの活動を通して、自分たちのまちを見直し、関心をもって、まちのいいところを認識するとともに、自分の住まい方を見つめ直す。このような態度が、高度経済成長期に効率的に労働力を収納する道具としてつくられた都市に欠けていた大事なものを補うのではないか?
そう気がついた時、これまでの都市論が建築家や都市計画家の「つくる」という発想から論じられ、また実際に開発されて来ているのに対し、村松先生は「住まう」という視点からこれからの都市を考えていく方法論を提示されているのだと理解しました。
京都建築スクールプレゼン
ここで一旦、建築科二年生の「京都建築スクール」メンバーによる「都市のアクティビティのルール」という課題への取り組みについてプレゼンがありました。京都の下京区の一角を調査し、子どもたちの遊び場と道路の関係に着目、また用途地域規制(ルール)の掛け方を工夫することで、現代の都市、とりわけ課題に設定された地域にとって、より意味のある地区計画が可能になるのではないかという提案が示されました。
客席でコメントする村松先生
学生たちによるプレゼンに、村松先生は取組みの考え方を面白く拝見した。建築のかたち、ハードの側面にややかたよった提案なのではないかとコメント、最後に、「都市に住まうことはアートであり、哲学だ」と結論、講演を閉じました。
会場からの「都市の住まい方だけがアートなのか?」という質問に、いや、住まうことそのことがアートなのだと。ただ、田舎はそのような意識に開かれていない。都会の方が機会が多いことは確かだと答えられました。
ただ、アートと言われている内容が、先生の示されたもの(「市隠」 随園の生活)で言えば、それはある意味で、都会の中での自然、田舎的なものとの関わりに見出されたものであること、また一方で、田舎の農家や林家にわれ知らず、深いアーティスティックな生活をしている人もいる。両者の違いはその自覚のあり方、表現の仕方の違いにあるのであって、田舎に比較して都会がすぐれてアート的であるとは言えないのではないだろうか? (ちょっぴり疑問の建築科1年 マツイでした)
村松先生には梅雨の豪雨の中、お忙しいところを東京から往復して講演していただきました。学生たちにも私自身にもたいへん有意義な示唆を与えていただけたように思います。ありがとうございました。
(さのはるひと)
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